【For the chefs, with the chefs ~トップシェフに聞くゴ・エ・ミヨにまつわる思い出~ vol.1】三國清三シェフ

フランス発祥のグルメガイド「ゴ・エ・ミヨ」。1972年、創刊当時のフランスは“ヌーヴェルキュイジーヌ”という潮流の真っただ中にあり、創刊者のアンリ・ゴとクリスチャン・ミヨはフランス料理界の一大ムーブメントを「グルメガイド」というメディアを通して後押ししたことで、フランスグルメ界にその名を確立させました。 時代が変わり、料理界も日々うごめき変化する中、現代日本で「ゴ・エ・ミヨ」が果たす役割は一体何でしょうか? トップシェフたちに、「ゴ・エ・ミヨ」にまつわる思い出やエピソードを伺いました。

本連載記念すべきトップバッターは、「オテル・ドゥ・ミクニ」三國清三シェフ。ラグビーワールドカップや東京オリンピック・パラリンピックの顧問を務める傍ら、連日満席となるレストランの厨房を担う三國シェフ。桜咲く春の日の午後、多忙な業務の合間を縫って、たくさんの“レジェンド”を語ってくださいました。

前編となる今回は、三國シェフの修業時代のエピソードをお送りします。

 

ゴ・エ・ミヨジャポン編集部(以下、GMスタッフ):

本日はお忙しい中、貴重なお時間を頂きありがとうございます。(部屋を見回して)素敵なお部屋ですね。

 

三國清三シェフ(以下、三國シェフ)

この部屋は午後になると一番日が入り、明るくなります。壁の絵は、堂本尚郎さんの作品です。どうです、なかなかいいでしょう? さて、早速、話に入りましょうか。

 

GMスタッフ:

素敵です! では、早速ですが、今日は三國シェフがヨーロッパで修業されていた頃のお話を伺いたいと思います。20歳のときに、当時勤めていた帝国ホテルの村上料理長からの推薦を受け、スイスの日本大使館料理長に就任されたエピソードは有名ですね。

 

三國シェフ:

18歳でパートとして洗い場に入り、厨房で鍋を洗いながら社員の欠員待ちをしていました。当時の欠員待ちというと相当なもので、わたしの前にはなんと52名もいたのです。ところが、ちょうど前の人の番で社員登用が終わってしまって。

 

GMスタッフ:えっ……?! ちょうど目前で……?!


三國シェフ:

はじめて挫折を味わいました。20歳の夏。当時の帝国ホテルには18のレストランがあって、パートの時間が終わった後、18すべてのレストランの洗い場を回らせてもらって、ひたすら鍋を洗いました。それでも、その年明けには北海道に帰ろうと思っていましたが。10月頃、村上料理長に呼び出されたときは、当然クビの宣告をされるとばかり思っていたのですが、なんとそれがジュネーブ行きの話だったのです。


GMスタッフ:まさに大抜擢ですね。そのとき、どんなお気持ちでしたか?

 

三國シェフ:

最初にパッと頭に浮かんだのは、増毛町の風景でした。悔しいけど、もう帰ろうと思っていた故郷の風景ですね。その3秒後には「はい、行きます」と返事をしていました。

 

GMスタッフ:

たった3秒で即答……!! 当時はインターネットもSNSもなくて、ヨーロッパの情報もなかなか入手しづらかったと思いますが、迷いはなかったのでしょうか?

 

三國シェフ:

もちろん何も分からない状態です。それでも、ジュネーブの空港に降り立ったときの雪景色が増毛町にそっくりで。それで大丈夫だという気がしました。

 

GMスタッフ:

大使館の料理長というと、世界各国のトップたちの料理を担う重役です。情報収集の手段も限られる中、どのように仕事をされていたのでしょうか?

 

三國シェフ:

ある日、大使に呼び出されて、一週間後に「アメリカ大使を招いて晩餐会を開く」と言われました。当時は晩餐会が一体どういうものなのか、よく分からなくて。それで、アメリカ大使がよく通っていた「リヨン・ドール」という店を教えてもらい、大使が当時好んで食べていた「うさぎのマスタードソース」を習ってきたのです。誰にも内緒で。それで、晩餐会にそのうさぎ料理を出したら、大使が非常に喜んでくださった。なんとか初めての晩餐会を乗り切った、というわけです。

 

GMスタッフ:

その後、“スイス最高のレストラン”と言われ、現在も不動の名声を誇るフレディ・ジラルデシェフと出会われています。当時はまだミシュランも進出していませんでしたが、きっかけは何だったのでしょうか?

 

三國シェフ:

週1日の休日に地元のレストランで勉強させてもらっていたとき、ふとジラルデシェフの噂を聞いて、興味を持ったのです。早速行ってみましたが、外国人が珍しい時代でしたから、最初は門前払いをくらいました。それでも粘って、洗い場に入り込んで鍋を洗っているうちに、受け入れて頂けました。当時、日本のフランス料理人は、だいたいみんなアヌシーの「オーベルジュ・ドゥ・ペール・ビズ」のようなミシュランの星付きレストランで修業していましたが、わたしは直感的にジラルデシェフだ、と思ったのです。彼は「厨房のモーツァルト」と呼ばれていて、客席は満席なのに、メニューは何も決まっていない。ただ食材があって、レシピも何もない状態から料理が生まれていくのです。1970年代、ちょうどあの頃がフランス料理において、クラシックとヌーヴェルの分かれ目だった気がしますね。



”ミシュランはお客がどれだけ心地よく、美味しいものを食べられるかを評価し、ゴ・エ・ミヨは、料理人がどれだけ素晴らしいかを評価していると思います。”

                           三國清三シェフ


GMチーフ:

そうした潮流の分かれ目にあって、グルメガイドはどのような役割を果たしていたと思いますか?

 

三國シェフ:

ミシュランは絶対的な権威、というイメージですね。それに対して、ゴ・エ・ミヨというのはボキューズ氏やゲラール氏を発掘した革新派というイメージがあります。保守とは対極にあって、新しいことに挑戦できる自由がありますね。ミシュランはお客がどれだけ心地よく、美味しいものを食べられるか、という点で評価しますが、ゴ・エ・ミヨは、料理人がどれだけ素晴らしいかを評価していると思います。同じ評価本でも、目の付けどころは違っていますね。

 

GMチーフ:

まさにそこにゴ・エ・ミヨらしさ、ゴ・エ・ミヨの存在理由がある気がします。

 

三國シェフ:

芸術は必ず点数を付けられ、評論家に批評される運命にあります。そうして評価され、新たな作品を作り、また評価され……どの芸術もそうやって歴史を築いていくものだと思います。もちろん、誰しも高評価を受けたいと願うでしょうけれどね!

 

後編では、帰国後の三國シェフのご活躍についてお話を伺います。

 

2019年4月5日 オテル・ドゥ・ミクニにて

 

取材・撮影:ゴ・エ・ミヨジャポン編集部

協力:株式会社ソシエテミクニ